福島県いわき市にて画廊ギャラリー「いわき」のオーナー

昭和24年、茨城県は大平洋岸の北の端、北茨城市磯原町に生まれました。
海岸から10Kmくらい入りこんだ山あいの30戸程の小さな集落で、今以上に
豊かな自然環境にどっぷりつかり少年時代を過ごしました。この辺の家は私
が中学を卒業する頃迄は半林半農で生計をたてていましたので、時々は家
業を手伝う事はありましたが、放課後や学校が休みの日は、それこそ野山を
かけまわって遊び育ちました。

小学校高学年の頃になると、ずっと年上の先輩達にめじろや山がらをとりに連れてってもらえるようになり、夏休みともなれば、花園の方までガラス箱とヤスを持って魚とりに遠征する事もありました。こんな調子で、今になって思い返すとバラ色の少年時代を過ごしたように感じます。

高校は隣のいわき市迄3年間汽車で通いました。高校に入る時に1年浪人しましたので計4年間平の町には何かとお世話になりました。そこで志賀忠重君に出会いました。

大学に入る事になって始めて親元を離れて4年間横浜で暮らしました。大学生活も後1年という頃、このまま卒業して何をするかなぁと思い始め、ふと外国へ行ってみたいという気持ちになりました。大学4年生の1年間はほとんど学校へは行かずウェイターの仕事をみっちりして、お金を溜める事になりました。観光ビザだと短期日しか滞在する事ができないのでカルフォルニア州立の語学学校に入学することにしました。ご存知のようにアメリカはいろんな国からいろんな人達が沢山入ってくる国ですから、そういった人達に語学とアメリカの歴史を教えてくれる学校がいくつかあります。

私が入学したのはサンフランシスコにある学校で、州政府が運営していたので授業料はただでした、ありがたい事です。昼は学校、夕方からは皿洗いのバイトをして2年間サンフランシスコで暮らしました。それでもその当時からアメリカは完全週休2日制の国でしたから皿洗いの仕事も週に2日は休みの日がありました。ですから休みを利用してしょっちゅう小旅行が出来ました

東隣のネバタ州の境にはヨセミテという自然景観の素晴しい山岳地帯があり、そこには何回となくでかけて山歩きを楽しみました。渡米生活2年目の頃、友人の志賀君から便りがあり、「そっちの方はどうだ」という文面だったので「来なきゃわからないよ」という返事を出したらそれからまもなくして志賀君が遊びに来たのはびっくりしました。志賀君には別の目的があったらしく私のアパートに滞在してしばらくハングライダーの学校に通う事になりました。ハングライダーの教官いわく「ミスター志賀は勇気があるからマスターするのも早い」その言葉どうり短期間のうちにちょっとは空を飛べるようになりました。

私の方も2年間の滞米生活もそろそろの時期にきていたので、志賀君と一緒に日本に引き上げる事にしました。今にして思うとあっという間の楽しいアメリカ滞在でした。日本に戻ってからもこれといって仕事はあまり考えていなかったので、しばらくは志賀君のハングライダー乗りにつきあいました。

長野のスキー場や磐梯山にも行きました。山の頂上までハングライダーをかつぎあげ、飛び立つわけですが、着地点にまわりこみ、待ち受けるのが私の役目でした。西へ東へ結構つきあいました。そうこうしているうちに、「そろそろ何か仕事を始めよう」かと思いはじめた頃、志賀君の助言と援助があり平の町で画廊を開くことになりました。商売のことはなにもわかりませんでしたが、もともと美術や芸術といったものは好きでしたので、苦しいながらも十数年、この仕事を続ける事ができ現在に至っています。



  志賀 忠重君のエピソード

私たちはお互い高校に入る時に1年浪人生活を送りました。めずらしいケースですが、高校へ入る為の予備校がありそこではじめて志賀君に出会いました。入学早々廊下でふざけている奴がいて、それも喧嘩が始まったかと思うくらいのはでな取っ組み合いをしているのです。

顔を真っ赤にしてハアハア息をきらして取っ組みあいをしています。もみ合い最中、長靴が抜けると中は素足そういえば冬でも素足に長靴をはいて学校に来ていました。そんな男が模擬試験をすると名前が張り出される位の優秀さなので、なんともけったいな奴がいるものだと思っていました。それが私の志賀君に対する第一印象でありました。同じクラスで席も近かったので、自然に話すようになり、なんとなく波長があってすぐ友達になりました。

ある時、授業中志賀君が取っ組みあいの相手の山野辺君と何やらひそひそと言い争いをしています。志賀君はその頃ひばりか何かの幼鳥をどこかで見つけてきて学校にも戻ってきて鳴くたびに餌をあげていました。「そんなに可愛がって育てても飛べるようになったら絶対戻ってこないよ。」「いや、戻ってくる。」そんな事がいさかいの原因だったようです。

それから数日後、羽根もきれいに出揃い、パタパタと数メートル滑空するようになった頃、どちらかともなく、「よし、お城山からはなしてみよう。」という事になり、志賀君と山野辺君はそおっと授業を抜け出しました。暫くして、それぞれの笑顔で二人は教室に戻ってきました。「志賀君、どうだった?」と聞くと「帰ってこねえ」と一言あって、大笑い。皆もつられて大笑いの出来事でした。

そう言えばこの時代の忘れられない出来事をもう一つ思い出しました。季節は秋、何気なく「忠平の方にはあけびなってっか?」と聞くので、「今の時期だから山へ入ればいっぱいなってんじゃねえの。」と答えると、「んじゃ明日、あけび取りにいくべ」ときた。その夜、志賀君が私の家に来て泊まる事になりました。話を聞けば付き合っている女の子がいて、明日がその女子高の文化祭の日で、アケビを手土産に会いに行くというのです。何と素晴しいアイデアだろう。

翌朝早く、私達は山に入りました。案の上あけびは沢山なっていました。紫色に白い筋がかすかに見える丁度食べ頃のうまそうなやつだけを夢中になって取りました。汽車の時間に間に合わなくなると言うので、山道を走って降りてくると広いナップサックの底のほうはアケビがぐちゃぐちゃです。きれいな物を詰め直し、志賀君は意気揚々と彼女の文化祭に向かいました。素晴しい発想と行動力、まさに志賀君の現在を暗示させる出来事でした。



  今後の抱負

画廊を始めて17年になりますが、おかげさまで多くの作家の方達とお知り合いになることができました。この仕事をしていて嬉しい事は、無名の時代に知り得た人が、その後芸術家として名を成し世界的な活躍をする迄に成長する事に遭遇することです。

私にとってみれば蔡さんがその人です。蔡さんとは来日間もない頃、知り
合う事が出来ました。鷹見さんから「中国からこんな芸術家が最近、日本
にやって来ましたよ」と何枚かの作品の写真をみせられました。私はその
作品にひどく感激して実物の作品をみたいし、その人にも会ってみたいと
強く思いました。しばらくしてから鷹見さんから連絡がきて、江古田駅近く
の小さな画廊で作品展をするというので、はやる気持ちを押さえるように
して会場へ向かいました。

そこではじめて蔡さんにお会いし、素晴しい作品も見せて頂きました。その頃の蔡さんはまだぎこちない日本語でしたが、お互いに意志の交換は充分に出来ましたし私の方から蔡さんのアパートを訪ねたり、また蔡さんが私の家にも遊びに来るようになりました。良き理解者であり、協力者であった鷹見さんのおかげで蔡さんと知り合う事ができたのです。その頃住んでいた板橋の六畳一間のアパートにはずいぶん通いました。

小さなテーブルの他は中国から持って来た絵と日本に来てから描き始めた絵で一杯でした。この頃の蔡さんは今では考えられない事ですが、作品を発表する画廊がありませんでした。私の画廊は地方にあるし、始めたばかりで力不足で売れないかもしれませんが、良かったらいわきで作品展をやってもらえないかと頼んでみました。

二つ返事で私の画廊で始めての「蔡國強展」を開催することになったわけです。あれから15年、蔡さんは今では世界中のいろんな国や団体から声がかかり精力的に壮大な作品を発表し続けています。世界的に著名な美術館にも作品が収蔵されています。そういう芸術家は無名時代に知り合えたことは有り難い事であり、つくづくこの仕事をやっていて本当に良かったと思っています。これからも何かを感じさせる若き芸術家と多く知り合いその人達の作品を紹介してゆきたいと念じております。
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