カナディアンロッキーズビデオ(CRV)社長

    


 私のプロフィール

生まれたのは、志賀さんと同じ1950年、東京出身
趣味は、会社経営
カナディアンロッキーズビデオ(カナダのビデオプロダクション)
キューブエンタープライズ(バンフ町の日本語新聞発行、翻訳、CG関連)
アイス フィールド スカイツアーズ
(ロッキー山脈の氷原にスキーセスナでお客を運ぶ)
CRVプロダクション(F-1、冬季オリンピックなどの撮影で世界中で楽しむ)
CRV FIJI(南大平洋の島で水中撮影のビデオプロダクション)
CRV NZ(ニュージランドのビデオプロダクション)

現住所は一応カナダですが、気が向けばどこにでもすみたいと思っています。
いつも思っている事、何でも本気でやってみたい。
将来の夢、ペンギンと泳ぎたい。



 志賀さんとの出会いと思いで


1997年の2月、日本から電話が入り、探検家大場さんの北極海単独横断の取材で北極に行けないかと話しがありました。日本からの派遣チームでは時間がかかるために間に合わない、御社は北極での撮影は大丈夫ですかとの問いあわせでした。

実のところ、北極圏の取材経験は全くなく、アラスカやロッキーの氷河地帯の撮影経験のみでした、しかし、北極圏での仕事に興味を持ち即答で「すぐにでも行けます」と答えました。その後、話しは進み担当者からの注意事項の一つにベースマネージヤーの人が「変わり者で要注意」とのことでした。それが志賀さんでした。そして志賀さんとの最初の出合いは北極の村、レゾリュートにあるホテルでした。

第一の印象は、ニコニコした、おじさんだな。でも、注意、注意、最初の内は少々緊張して接しました。大場さんより補給の要請が来る迄のただ、待つだけの日の間に仕入れた情報では、「過去3回北極点迄も来れないのに横断をする」等と言ってほら吹きだとか、はたまた大場さんは緊急発信機をポケベル代わりにして、ツインオッター(双発の補給機)を呼んだとか、ひどい話しでは、ロシアから出発して途中はヘリコプターで極点近く迄来たようだとか、かなりひどい噂が渦巻いてました、そんな感情の渦巻くなかで、志賀さんは、私に自分の知っている大場さんを自分の彼女を紹介するように嬉しそうに話してくれたのでした。

そして、いつの間にか私の気持ちは志賀さんになびいて、志賀さんを応援したり、力になりたいと思った。私達はあっと言う間に何でも率直に話し合える間柄になっていました。

これは、私達が年が同じと言うだけではなく、志賀さんの持つ魅力によるものと思います。数週間後には、無線機も持たずに1000km近くも歩き通している大場も変わっているが、予備知識も無く2週間だけと頼まれてサポートを引き受けた志賀さんとそれを応援する私のサポート隊も変わっていると言われました。

他のチームが専用の電話回線を持ち、個室の事務所を持ち、コンピューターを使って気象情報を取っているのと比べると、志賀さんには何にも無く、他チームが近代戦なら、志賀さんは竹やりで戦争している。が、現地の見方でした。

実際に大場チームには、北極圏の地図も無く、アルゴス発信機でつかめる大場さんの動きはテリーさんからもらった包装しの裏紙を使い、手作り地図に書き込んだりしていたのです。こういった地道に誠実にできる事を着々とやっているのを見ていた、河野隊、オランダ隊、その他のチームも好意を持って志賀さんを受け入れ始めてくれたのでした。

大場さんの北極点近くでの2回目の補給は、成功し、その後の食料も装備も無かったのに、志賀さんのニコニコ顔ですべてを調達していったのです。これはほとんど神業でした。

そして、一ヶ月後には完全に周りの人たちを見方にしていました。現地のエスキモーの人達迄もです。レゾリュートでは、大場さんを知らなくても、志賀さんを知らない人はいませんでした。

大場さんが奇跡的に北極海単独横断を成し遂げ、北極圏を出る頃には、大場チームは最初の頃の、悪い意味での、「クレージーチーム」から、「神業を使う素晴らしいクレージーチーム」に、回りの見方は変わっていました。

志賀さんを応援したのは、わずか、3ヶ月でしたが、私にとっては、47年の人生を一緒に過ごしてきたような、何でも相談できる、心地よく付き合える人になっていました。

大場さんのサポートが終わった後も付き合いは続いており、日本に行くと必ず電話をして会っています。周りの人に言わせると、いい年をして、笑い声が絶えない長話をして、まるで女学生のようだと言われています。かけがえのない友人とめぐり合えるチャンスをくれた大場さんと北極の取材に感謝しています。

 


カナダにて  「大変良い」


バンフの町で一番の伝統を持つバンフスプリングスに5日間滞在し、チェックアウトの朝が来た。バンフスプリングスは100年の伝統があり金額も一番高いし景色も最高だった、それ迄毎朝起きるのが遅く朝食をとらずにいたので始めてホテルで朝食を食べてみた、精算は部屋に付けてもらった。

それ迄の宿泊明細は前の晩部屋に届いており、カードキーを一緒にフロントに出し支払いをお願いした。相手の女性は、ネームカードにMICHIKOと書いてありきれいな日本語で「これ以外にお支払いするものはございませんか」と聞いて来た、私は「朝食を食べました、それがのっていません」と答えた、彼女はすぐに「レストランに確認しますので少しお待ち下さい」と内線電話をかけた、電話のかけ方もいい感じだった、英語で「自分はフロントのみち子ですおはようございます、元気ですか、それはいいですね」みたいな一言の後に要件を話しだした、部屋番号を言いスペルを言って伝票の確認をしてくれるように続けた、その後「私に確認をとってますので少しお待ち下さい」と言い。

「その間に宜しかったらこのアンケートにご記入下さい」とアンケート用紙とボールペンを出した、アンケートは20項目位あり、大変良い、良い、普通、悪い。大変悪いの5段階だった、アンケートの最初には、アンケートは支配人へ行く事とアンケートによってお客様の満足を高めてゆきたい事が分りやすい文章で書かれていた、アンケートの中身はごく一般的で私はほとんど良いに丸を付けていた。

アンケートを半分位迄書いた時、レストランより電話がかかってきた、問い合わせた時から1分とかかっておらず、けっこう速い感じがした、電話を聞いた彼女は私に伝票が見当たらないので「・・・」としますと聞き慣れない単語を言った、私は「・・・」ってどうゆう事ですかと聞くと、「伝票がありませんので食事は無料でけっこうです」と返事をした、私は「でもさっき食べたのですよ」と答えると「私達の不手際で、伝票がありませんので無料でけっこうです、時間をとらせて申し訳ありません」と明るく明快に答えるではないか、この決断と応対の速さにはびっくりした、これは事前に練習してるのかなと考えさせられてしまう応対の良さだった。

私は、その時書いていたアンケートの項目にチェックアウト時の対応とスピードという欄に「良い」に丸を付けていたものを消し、「大変に良い」に丸を付け直した。何もなければ「良い」しか丸をつけないのがアクシデント時の対応で真価を問われるのを身をもって体験した気持ちになり嬉しかった。迎えに来た蓮見さんにこの事を話した「ちょっと信じられないな、ここでは前の頃はチェックアウト時のトラブルを良く聞いていたのでそれが本当なら認識を変えなければならないな」と言った。朝食一食分でバンフスプリングスは私と蓮見さんの2人のファンを作った事になった。

私の為にバンフスプリングスを予約してくれた蓮見さんの面目も上がった。この事で敏速な判断と決断はお客に感動を与える事が出来、又最後の印象が全ての印象をグレードアップさせるというのもわかった、何かがなければ「良い」はもらえても
「大変良い」はもらえないものでアクシデントがあった時こそ自分の魅力、能力を発注するチャンスでもあるという事を体験できた。バンフスプリングスはまた行ってみたいホテルです。

                                      2000年/11 /18